|
脳裏から離れない言葉というのがある。
僕にとっては
「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」
というのはその一つだ。それには二つ理由がある。ひとつはこの言葉がキリストの
言葉であるにもかかわらず、あたかも一休さんが将軍さまを言い負かしたとんち話
のように思われているからだ。
もうひとつは、この言葉がソフトウェア設計者とし
ての自分にとって座右の銘であるからだ。
先にも書いたが、この国の人々は、キリスト教徒も含めてこの言葉を単なる一休さ
んの頓知と同列に考えている。
しかし、少なくともキリスト教の教理上はそうではないはずだ。
神への服従と世俗の権威(カエサル)への服従はともに果たされるべき義務である。
それがその意味のはず。
キリスト教徒と自称する人々、そう呼ばれている人々はもう一度この言葉を反芻す
るべきだ。
この人々は、時として自分たちがキリスト教徒であることを理由に、我々の皇室へ
相応の敬意を払うことを怠りがちだ。
彼らの皇室に対する言い分の一つ一つを取り上げて非難するのはこの場では避ける。
しかし、わたしは今まで共産主義者のプロパガンダと見まがうばかりの不敬な言辞
を敬虔なキリスト者と目されるべき人々が弄するのを幾度となく見ている。
しかし、思い起こせば主の時代の支配者は、ティベリウス・カエサルであった。
ティベリウスはキリスト教徒であったか?否。
それにも関わらず、主は「カエサルのものはカエサルに」と我ら人類に命じた。
してみれば、この国でキリストを奉じるものたちこそ皇室へ相応の敬意を率先して
払うべきではないだろうか?
なお、日本における正教徒は今なお「皇室のための祈り」を祈祷書に持っている
ことは申し添えておく。
「カエサルのものはカエサルに」という言葉にはもうひとつ通俗的な意味もある。
そこでは「あるべきものをあるべきところに帰さしむべし」という意味になる。
濁水はソフトウェア技術者でオブジェクト指向と呼ばれるソフトウェア開発思想が
好きなので、通俗的な意味でも「カエサル〜」は常に意識する言葉なのだ。
あるべきものをあるべきところに定める。
あるべきデータ、あるべき処理をあるべきクラスに定める。
あるべきクラスをあるべきパッケージに定める。
ほんのそれだけのことを徹底するだけで、部品の再利用性やプ
ログラムの柔軟性は飛躍的に向上する。
ただ、それだけのことを徹底するためにも、設計者の研鑚と、
「そうすることが正しい」という設計上の信念が不可欠である。
しかし、その一方で
「まあ動けばいいか」
こんな言葉を口にせざるを得ないときもある。
モノが動かなければしかたないので、作りの妥協を強いられる場合だ。
しかし譲れない一線というものもある。
それは何か。僕にとっては
「カエサルのものはカエサルに」帰されているか?である。
|